敗北から何を学ぶか
高校サッカーの関連番組で、試合に負けたチームのロッカールームの様子を放送していた。負けた悔しさに涙を流す選手に対して監督が語りかけるシーンで、感謝とねぎらいの言葉のほかに、どの監督も「この敗北が後で役に立つ」「負けた悔しさを次の道に活かせ」ということを言っていた。試合を終えて監督と選手という立場が教師と生徒の関係に変わったかのようで印象的だったのだが、「敗北から学ぶ」という部分も心に残った。トーナメントで負けを知らずに最後までいられるのはわずか1チーム、その他は全て負けを味わうわけである。リーグ戦であっても全く負けないチームというのはほとんどない。つまり、負ける方が「当然」であって、そこから何を学ぶかが重要なのだろう。
振り返って自分の本業である「研究」を考えると、「敗北」というのが何なのかが分かりにくい。学生の頃はゼミや学内の発表会等で教官や先輩からこてんぱんに叩かれ「負け」を感じることはあるが、一研究者として(一応)独り立ちした後は、なかなかはっきりと「負ける」ことがないのである。私のいる分野では、学会で発表しても正面切って批判されることは少ないし、論文が雑誌に載っても(良い悪い含めて)評判や意見を聞くこともないし、シンポジウム等でも正面切った議論が行われることもあまりない。なんというか、相手の(研究の)自由を尊重するあまりに、良い意味で争うこと・批判すること・議論することが避けられているような気がするのだ。投稿した論文が落とされるのが唯一の分かりやすい「負け」だが、審査の過程でなぜ「負けた」のかは分かりにくい。サッカーのように、正面から挑んで力負けするとか、一つのミスから負けるというように、はっきりと負けを感じるわけではない。
おかげで「敗北」をはっきり味わうことはなく、そこから何かを学ぶこともないように思う。こういう(悪く言えば)ぬるま湯のような状況だと、研究者として成長していくことが難しいのではないか、という気がしてならない。もちろん単なる非難・否定や人格面への誹謗中傷等はあってはならないけれども、健全な競争が行われ、健全な形で「敗北」することこそ、実は必要なのではないかと思う、今日このごろである。かといって、発表に対してきつい意見を言うと(時々やっているのだが)、周りから厳しい人だと思われてしまうので、なかなか難しいところなのであるが。
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